原爆に遭ったおばあさん(1)

怪しいお話
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毎年、8月6日が来る度に思い出す人がいます。

私の親は広島出身で、親戚に被爆者がいました。

私が子供の頃、まだ何人かは存命で、彼らはあまり多くを語りたがらなかったけど、たとえば祖父母の家にあったもの――稚拙な筆跡で旧仮名遣いの単語が繰り返し書かれた帳面や、黒く煤けてぐんにゃり曲がったガラスなど――や、なによりも彼ら自身のエネルギーから、私はいくつかのことを学びました。

私が小学生だったある夏、家族みんなで帰省する途中、初めての場所に立ち寄りました。

そこは、病院でした。

入院していたのは見知らぬおばあさんで、祖母がとても可愛がってもらった人だと聞かされました。

彼女は戦前、夫とともにブラジルに渡り、農民として懸命に働き、子供はできなかったけどブラジル人の養女をもらい、それなりに暮らしていたところに第二次世界大戦が勃発。

日本人への迫害が始まり、(年頃で、しかも複雑な間柄の娘を守るためにも)より安全な奥地へ、奥地へと逃げ、一時は消息不明になり、一体どうしたのかは不明なれど(本人が決して語らなかったらしい)、とにかく着の身着のまま日本に帰ってきました。

養女は現地で結婚し、逃避行の途中で夫はいなくなり、彼女は一人でした。

そして、身を寄せていた親戚の家で原爆に遭いました。

私は彼女を見た時、エネルギーが徹底的に”腐り果てた”先に、心も体も「おそらく、もはや戻れない」状態というものが存在し、それがどういうものかということを、生まれて初めて知りました。

病室にいた時、彼女は嘔吐し、祖母は介助しながら背中をさすっていました。

汚れた口元を拭うものを探して床頭台の引き出しを開け、何かを見つけて、そのまま黙って引き出しを閉めました。

記憶していた形状から、ずっと後になって気づきましたが、それは被爆者手帳でした。

彼女には、財産も身寄りもなかったので、無償で治療が受けられる施設に入っていたはずです。

もちろん福祉の恩恵もあったでしょうが、当時の祖母の言動から推察すると彼女は、ABCC(原爆傷害調査委員会)が戦後行った研究に端を発する、「治療」の名目で収集されていた被曝データを提供するための、継続調査対象者(多数存在した)のうちの一人だったのではないか、と思われます。

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