原爆に遭ったおばあさん(6)

怪しいお話
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前回、仏にゆだねる心境を、「思考停止かもしれない」などとバチ当たりな表現をしましたが、私は仏さまを「ありがたい」と思っています

なぜなら、信仰は(原則的には)無料だし、それによって得られる救いは、少なくとも「建設的」ではあるからです。

日々、過酷な状況に直面している人たちにこそ、より「救い」は必要だと思うけど、置かれた環境や心理状態によっては、手にした救いが現実逃避や自己欺瞞など、”本質的には、救いではないもの”という場合があるかもしれません。

もしかすると、安易に得られるものであるほど、そうかもしれません。

でも、仏にゆだねることでもたらされる安心感は、いつか学びに向かうことのできる、心の余裕を生みだしてくれます。

しかし、”仏の導き”という言葉を正確に解釈すれば、仏にゆだねても、自分の足で歩き続けなければならないことには変わりなく、また、ゆだねた先に必ずしあわせが待っている保証もないことに気づきます。

スピリチュアルにありがちな表現(というか、ある意味レトリック)ですが、あくまでも、

”導く”=”道案内をする”としか言っていない

からです。

見えない世界のルールでは、見えない場所のエネルギーがそのまま現実化します。

神も仏も、目に見えない場所の摂理そのものです。

よく言われていることですが、人の心の中には無数の固定観念や思い込みが詰まっています。

ただ”仏にお任せ”しているだけなら、これらが現実化し続けるでしょう。

もし、それらが魂の欲求とは違う場合は、大なり小なりの軋轢が生じる(=しあわせではない)でしょう。

実は、これを解消するロジックも一つだけある、とは思うのです。

それは、

「仏さまが、必ず良い方向に導いてくれる」と疑いなく信じる

ことです。

でも、「良い」ということが、どこに対してよいのか(本人にとって嬉しいことなのか、摂理として正しいことなのか)によっても話が変わってくるし、そもそも、心からそう思っている人は、仏にすがりたくなるような状況になど陥らない気もします。

いずれにせよ、あらゆるスピリチュアルは手段(道具)でしかないので、たとえそれによって一時的な癒しを得られても、その先、正しい方法で、しかも能動的に使わなければ、望ましい結末にはたどり着かないだろう、と思います。

スピリチュアルの守備範囲は、奇跡でも魔法でもなく、ただの物理現象だからです。

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