はじめに
稀代の出世人、豊臣秀吉。
500年を経た今も、その名を知らぬ日本人はいないでしょう。
貧しい出自でありながら、知恵と「人たらし」の才覚で天下人へ――
多くの小説やドラマでは、陽気で人懐っこく、少しお調子者の人物像で描かれます。
しかし、晩年の彼は極めて冷酷で残虐な所業を重ねました。
その血塗られた暴走は、彼が死ぬまで続いたのです。
今回は、秀吉の晩年を映す三つの京都の史跡をめぐり、その尋常ならざる「エゴ」【エゴ】:誰もが持ちうる「歪んだ自己愛」「独善性」「猜疑心」「誇大妄想」「執着」などの総称。つまり、「自尊心を守るための防衛システム」です。の気配をたどります。
① 瑞泉寺:秀次一族39名の悲劇
三条大橋のすぐ側にある瑞泉寺。
秀吉の甥・豊臣秀次とその妻子39名の菩提を弔う寺院です。

秀吉は多くの女性と関係を持ちながらも子宝に恵まれず、甥の秀次を関白に任じました。
しかし実子・秀頼が誕生すると、秀次を謀反の罪で追い詰め、高野山で切腹を命じます。
その首は三条河原に送られ、三方に乗せられて西向きに晒されました。
妻子たちはその前で拝まされたのち、次々と処刑。
それは比類なき見せしめでした。
※ 処刑を描いた絵はこちら
すべての遺体は河原に掘った大穴に投げ込まれ、上に塚が置かれました。
そして、やがて角倉了以が瑞泉寺を開くまで、弔われることもなく放置された処刑から16年後の慶長16年(1611)には、塚は加茂川の洪水で崩壊。角倉が高瀬川の構築を機縁に墓域を整備しました。のです。

境内奥には、秀次の首を納めた塚と一族の墓が並んでいます。
中でも、輿入れのために入京し、そのまま刑場に送られた悲劇の美少女・駒姫【駒姫】:当時「天下一の美少女」と謳われた最上義光の次女。父・最上氏が手を尽くし助命が許されたものの、姫の京都到着がわずかに先んじたため処刑。15歳没。過酷な運命を毅然と受け入れた姿は後世まで語り継がれています。は特に知られた存在です。



ここで一つ疑問が生まれます。
秀吉の実子は、秀頼ただ一人。
それなのに血縁である秀次の子どもたちまで処刑するというのは、政権の未来に向けた最大の保険を自ら破棄する行為です。
当時の常識では考えられない愚行でしょう。
この背後には、秀吉の「稀代のエゴ」が関係しているかもしれません。
② 一条戻橋:千利休の首が晒された場所
安倍晴明の式神伝説や渡辺綱の鬼女伝説でよく知られる一条戻橋。
ここには、かつて千利休の首が晒されていました。

千利休は堺商人の出で、茶道における精神性を確立した人物です。
聚楽屋敷(現・晴明神社境内)に居を構え、秀吉政権下で絶大な影響力を持ちました。



「内のことは利休に、外のことは秀長に」との逸話があるほど秀吉に信任されましたが、その逆鱗に触れ、切腹を命じられました。利休の罪状の一つは、「大徳寺山門への木像安置(不敬罪)」です。利休の出資への謝礼として、寺側がその等身大の木像を山門に安置。しかし、秀吉がその門をくぐる際に、「天下人である秀吉が、家臣である利休の股の下をくぐることになる」として激怒したとされています。特にこの木像が雪駄(せった)を履いていたことも、不遜であると問題視されました。
その首は、屋敷から100mほど南の、ここ一条戻橋に――
しかも、大徳寺山門にあった自身の木像の足で踏ませるように晒されました。
実は利休は、謝罪すれば許される状況にあったともいわれます。
にもかかわらず、彼は謝らずに死を選んだ。
そして秀吉は、この屈辱的な晒し方を命じた。
このエピソードにも、「稀代のエゴの暴走」の秘密が隠されているかもしれません。
③ 耳塚・鼻塚:朝鮮出兵に見える異常な執念
戦国時代、日本では敵兵の首を持ち帰ることで戦功を示す習慣がありました。
秀吉は二度にわたって朝鮮へ出兵しました1が、文禄の役では長距離の運搬や腐敗が問題化。
慶長の役では、代わりに耳や鼻を削ぎ、塩漬けにして送らせたと伝わります。
この耳塚には、その朝鮮兵や明兵の耳・鼻醍醐寺座主の義演による『義演准后日記(ぎえんじゅごうにっき)』には、「高麗より耳鼻十五桶上る」の記述が見られます。が祀られています。

この出兵に政治的意義2があったことは否めません。
しかし一方で、大国・明(当時の中国)を征服したいという強いエゴも見え隠れするのです。


旅のあとに
これらの史跡が物語る「秀吉のエゴ」は、成功の原動力であったと同時に、破滅への引き金にもなりました。
その正体と崩壊の全貌は、次回の三部作で詳しく掘り下げていきます。
脚注


