豊臣秀吉と千利休 ― 欠乏が紡ぐ魂の物語(前):天下人の心に響く「足る」の光

エッセイ

はじめに:残虐性の変質

前回は、豊臣秀吉・晩年の残虐事件にまつわる史跡をめぐり、そこに潜むエゴの気配をたどりました。

今回はそのエゴを鍵に、彼の内面を読み解いていきます。

ところで、秀吉の残虐性は晩年になって突然現れたものではありません。

それは天下取り以前から存在しており、ずっと「生存戦略」として機能していました。

戦場で敵をより多く、より確実に殺すことは、勝つための合理です。

しかし天下を手中に収めると、それを行使する必要はなくなります。

そして、彼自身の「エゴ」を守る手段へとシフトしていったのです。

エゴという防衛機能

ここでエゴについて短く触れておきます。

人は、「自分に何かが欠けている」と感じたとき、自尊心を脅かされ、不安や恐怖を覚えます。

その欠損をどうにかして埋めようとする心の働きが「エゴ」です。

エゴは、「歪んだ自己愛」や「誇大妄想」「独善」「猜疑心」「執着」など、さまざまな形を取って現れます。

しかし、いずれも「自尊心を守るための機能」です。

晩年の秀吉のエゴは、多くの人命や国際関係にまで影響を及ぼすような、常人をはるかに超えた大きさになっていました。

秀吉の三つの物質的欠損

秀吉が感じていた欠損には、「人間にはどうしようもないもの」が四つありました。

本稿では、そのうち物質面に関わる三つ――出自・容姿・不妊――を取り上げます。

残る一つ――形而上的な欠損――は次稿で考察します。

晩年の残虐行為と「エゴの表現型」

聚楽第落首事件(1589年)

2月25日夜、京都・聚楽第の白壁に落書きが貼られました。

激怒した秀吉は、僧侶や商人、子供から老人に至るまでを無差別に処刑。1

『多聞院日記』には「籤で処刑者が選ばれた」と記されています。

秀吉は長らく「不妊の屈辱」を抱えていましたが、ようやく恵まれた我が子・鶴松には”不義の子”という黒い噂がつきまとっていました。

落書きがそこを突いていたとしたら――この蛮行は、「私を笑う者は許さない」という誇大妄想の爆発だったといえます。

※ 彼は出自と容姿へのコンプレックスから高貴な血筋を持つ美人に執着しており、それが茶々(後の淀殿/鶴松の生母)を娶った動機でもあります。

異父弟妹惨殺事件(1589年)

母・大政所はかつて、生活のために再婚を重ねており、秀吉には複数の異父兄弟がいました。

フロイスフロイスは宣教師であり、彼の人物評はキリスト教是認の程度によって左右されました。「伴天連追放令」を発布した秀吉の評価は”ボロクソ”であり、この記述には誇張の可能性も指摘されています。ただ、秀吉の出自を考えれば、このような事態が起きた可能性は否定できません。『日本史』には、秀吉が(一般に知られていない)異父弟妹を殺したと記されています。

ある日、弟と名乗る人物が現れ、真偽を問われると、母は認知することを恥じました。

婚姻と呼ぶにはためらわれる関係があったからかもしれません。

秀吉は男性の言葉を否定してその場で男を斬首。

数カ月後、”妹”を甘言で呼び寄せ、同じく斬首しました。

これは、不世出の出世を遂げた彼だからこそ生じるリスクを排除する意図もあったでしょう。

しかし、彼らは秀吉自身の卑しい出自を体現する存在でもありました。

偉業で上書きしようとした不都合な過去を物理的に抹消する――それは、自己防衛本能の暴走と考えられます。

秀次切腹と一族の惨殺(1595年)

矢部健太郎氏(國學院大学教授)によれば、秀次は自ら出奔し、秀吉は彼を禁固刑にするつもりだったといいます。

この説が正しければ、秀吉は勝手な振る舞いをした秀次を助命しようとし、それが拒絶された、という構図になります。

いずれにせよ、秀次は高野山で切腹しました。

その首は、罪人の刑場である三条河原まで運ばれ、晒されます。

首は西方浄土の方角――西向きに設置されました。

それは、「たとえ極楽に向かおうとも、お前は(わしが定めた)罪人であり、成仏は許されぬ」という、強烈な呪詛の構図です。

さらに、その首の前で秀次の一族が次々と処刑され、屍は大穴へと投げ込まれました。

その場所は「畜生塚」と名付けられ、頂には秀次の首を納めた石堰が据えられます。

極めつけに、秀吉の生前、彼らが供養されることはありませんでした。

ここまでの整理

これらはいずれも、秀吉の「肥大したエゴ」を満たすために、生来の残虐性が働いた結果と見ることができます。

ただ、秀次事件と次に取り上げる利休事件は、それだけでは説明できません。

そこには「秀吉特有」ともいえる心理構造があり、彼らはそれにより秀吉に「致命的」な打撃を与えうる存在だったと考えられます。

続く中編では、その構造と、さらに彼を揺るがせた『精神的な高み』への渇望を探ります。

脚注

  1. この事件における具体的な処刑内容は以下の通り。
    ① 聚楽第の門番(17名): 落書が書かれた夜、門衛の任務に就いていた武士。鼻と耳を削がれた上で、六条河原にて磔(はりつけ)に処された。
    ② 尾藤道休と連座の牢人: 事件への関与や連座を疑われ追放された者たち。本願寺(天満)に逃げ込み、門主・顕如に保護を求めるも、秀吉の強硬な引き渡し要求により顕如が断念。道休ら関係者全員が自害した。
    ③ 天満の町人(63名): 道休らを匿っていたとされる町内の住人。天満から京都へ連行され、六条河原で磔。本文の「くじで選ばれた者」とは彼らを指す。
    ④ その他: 大坂での処刑者50名。
    (参照:『多聞院日記』『鹿苑日録』『言経卿記』)
    ↩︎

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