はじめに
もしあなたが人生に「理不尽さ」を感じるなら、それは宇宙の法則と私たちの考え方の間にギャップがあるからかもしれません。
宇宙から見れば合理的なことでも、人間にはそう思えないことがあるからです。
このテーマについては、以前の記事でも詳しく書いていますので、よろしければそちらもご覧ください。
そして、この「理不尽さ」は、私たちが死後の世界へ旅立つ際にも、同様に経験する可能性があると私は考えています。
今回は、成仏の仕組みと、そこに潜む理不尽な状況、そしてそれを避ける方法について考察します。
これはあくまで私の個人的な意見ですが、死後の世界に興味がある方の参考になれば幸いです。
「成仏」の意味とメカニズム
日本では一般的に「成仏」は、故人が苦しみから解放され、安らかにあの世へ旅立つことを指します。

しかし、本来の仏教においては、成仏とは、生前の悟りを通じて輪廻転生から完全に解脱し、涅槃の境地に至ることを意味します。
日本に仏教が伝来する過程で、古来からの死生観や祖先崇拝、浄土信仰と結びつき、より広い意味で故人が平穏に旅立つことを指すようになったのです。
成仏のメカニズム
スピリチュアルな見地から見ると、私たち人間は、高次元に存在する魂が、一時的に肉体という器に入って三次元の世界に生まれてきた存在だと考えられます。

死を迎えると肉体はその役割を終えて消滅します。
すると魂は三次元の世界に留まることができなくなり、三次元と高次元の狭間にある『中間領域』へと移行します。
魂のゲートと「執着」という名の障壁
この中間領域には高次元へと通じる「ゲート」があり、魂がこのゲートを通過することで、無事に成仏を完了します。

魂が自力でこのゲートを通過できる時間には限りがあり、その通過を阻むいくつかの要因が存在します。
その中でも、特に大きな障壁となるのが『執着』です。
魂は本来、ゲートを通過できます。高次元の存在なので、執着のような三次元的な感情は持たないからです。
しかし、亡くなったばかりの魂は、生前の意識や感情を強く残しています。
もし生前に特定の何か(例えば、未練を残した人間関係、心残りな出来事、あるいは自身の死への強いこだわりなど)に深く執着していた場合、それは三次元的な要素なのでゲートの通過を妨げてしまうのです。

「未成仏」とは何か?
ゲートを通過できなかった魂は中間領域に留まり、この状態を「未成仏」、その魂を「未成仏霊」と呼びます。
未成仏は、魂にとって非常に深刻な状態です。
魂がこの世に生まれてくる目的は、自身を成長・変化させるためであり、転生を重ねることで最終的に「解脱」(再び人間として生まれる必要がなくなる状態)を目指すと言われています。
しかし、未成仏霊は三次元と高次元のどちらにも進むことができず、中間領域に留まり続けてしまうため、魂本来の成長と進化という目的を達成できなくなってしまうのです。
魂が本来の『あるべき流れ』から外れてしまうため、この状態が長く続けば、魂が自己のアイデンティティを見失い、自分が何者であるかさえ分からぬまま、永遠に中間領域を彷徨い続けるといった深刻な事態も起こりえます

なぜ執着が「理不尽」なのか?
私たち人間は、誰もが何らかの執着を抱えています。
むしろ、何かに執着せずにはいられないという性質を、本質的に持ち合わせていると言えるでしょう
この執着は、魂にとって極めて深刻な状態である未成仏を引き起こす大きな要因であるにもかかわらず、私たちはそのメカニズムや潜在的なリスクについて、生前も死後も知る機会がほとんどありません。
これではまるで、私たちを意図的に未成仏へと誘い込んでいるかのようにさえ感じられ、この状況はあまりにも理不尽だと言わざるを得ません。
私たちに用意されたセーフティネット
しかし、私たちには助けが用意されていると思います。
成仏や魂に関する考え方は宗教や思想によって様々ですが1、「執着を手放す」という教えは、それらの多くに共通して存在しているからです。
人の外見や内面がどれほど違っても、宇宙の摂理は、誰に対しても平等に働きます。
古の賢人たちが、まるで口を揃えるかのように執着を手放すことを説いてきたのは、彼らが私たち後世の人間を救うための『セーフティネット』を用意してくれているかのように、私には感じられるのです。

もし今、あなたが何かに囚われ、苦しんでいると感じるのなら、少しずつでもその執着を手放すことを意識してみてはいかがでしょうか。
その小さな一歩が、きっとあなたをより自由で、軽やかな未来へと導き、そして死後の世界においても、あなたを本来あるべき場所へと誘ってくれるはずです。
脚注
- たとえば浄土真宗では、門徒は死後、阿弥陀如来に導かれて即刻成仏するとされているのでここで述べたようなメカニズムは存在しないことになっているし、また、キリスト教のように輪廻転生の思想を持たない宗教もあります。 ↩︎