はじめに
前編では、私が体験した「前世のヴィジョン」についてお話しました。
後編では、それについての考察と、臨死体験や覚醒時の感覚との比較を行います。
来世の条件
実現した条件
私の前世の「彼」は、来世にいくつかの条件を望んでいました。
それは、対照的な容姿、ものごとを感じる感覚、標準的な家族体験、そして当時は知り得なかった技術的知識を得ることです。
私は今、小柄な日本人女性で、典型的な庶民家庭に育ち、時に映画やドラマを見て涙することもあります。
鉄道や飛行機での長距離移動や、秘境や深海、宇宙、ミクロの世界などの映像鑑賞が大好きです。
それは、まさに彼が意図したとおりと言えるでしょう。
意図外の結果
しかし、ここには彼が意図しなかった2つの要素もあります。
一つは、スピリチュアルな感受性を持っていること。
『現実的に人を救うため』に神学ではなく医学を選んだ彼には、霊的な性質の存在など考えも及ばなかったはずです。
宗教によっては、霊能力は前世の業(カルマ)の表れとみなされます。
怪談和尚として知られる三木大雲氏によれば、日蓮宗ではそれを前世の罪の代償と解釈することもあるそうです。
もしこの見解が正しいなら、私には贖罪のカルマがあり、あれほど善良に生きた前世でさえ解消し切れなかった、ということになるのかもしれません。
二つ目は、20世紀末から21世紀にかけての日本に生まれたことです。
もし「庶民の女性」として生まれることが前提だったなら、これはおそらく人類史上稀に見る恵まれた時代と場所といえるでしょう。
それは、彼が人生で積んだ徳の総量に対して、来世への要求が控えめだったために生じた「余剰分」を、現在の私が享受しているのかもしれません。

臨死体験との共通点
3人の医師の体験
10年以上経った頃、立花隆氏の著書『臨死体験』を読んでいると、自身の前世体験と酷似する記述があることに気づきました。
特に、3人の医師による臨死体験は、彼らの医学的・科学的背景に基づく表現であることから、私の体感が強く呼び起こされました。
特に共感を覚えた部分を紹介します。
■ 片山氏の経験(心筋梗塞による心肺停止時)
身が軽くなり、直立となり、ベッドから離れた。
白光(極めて明るい、但し眩しくはない、気持ちの良い温度)の中を猛烈なスピードで上昇し、さらに頭上の上の密度の濃い白光(おかしな表現だが)のかたまり(その中がトンネル状になっていた)の中に入っていった。
■ 松本氏の体験(肋骨切除手術後の大出血による意識不明時)
病室の天井辺りから、下を俯瞰する形で見ている。
ベッドの上には顔色の悪い男が横たわっている。
その時はまだ、自分で自分を見ていることに気づいていない。
客観的に観察して「これはどうも助かりそうにない」と考えている。ベッド脇にいる老婆が自分の祖母であることに気づき、患者が自分であることに気づく。
でも、別に驚きも何も感情的な反応がない。すごく冷静に第三者的に見ている。
■ キルデ氏の体験(急性腹膜炎の手術中の大量出血時)
真っ暗でなにもないトンネルの中に吸い込まれてゆく。
その向こうに輝く光があり、そこに私は入っていく。
その大きな白い光は、愛に満ちた光である。そしてその巨大な全体像は、キリストの姿をしている。
キリスト像は自由の女神くらいの大きさがあるが、あまりに強く輝いているので、直接全体を見ることは出来なかった。
共通する要素
強烈な光の中、あるいはトンネル状の空間に入るといった要素は、多くの臨死体験で報告されています。
しかし、片山氏が表現する雲の質感、松本氏の無感情感、そしてキルデ氏の神のサイズ感などは、私自身の体験と強く重なる印象がありました。
真逆の人生を体感する
前世体験において私が最も印象深かった点は、全く異なる人物の人生を「体感したこと」です。
前世の彼は、来世で「真逆」の存在になることを望みました。
私と彼は、いわば「対偶」の関係です。
もし現実で出会ったら、お互い「よくわからない相手」と感じるでしょう。
しかし、彼の人生を「内側から」経験したことで、彼の思考と行動の必然性を、深く実感しています。
このレベルの理解を現実世界で可能にする手段は、まず存在しないでしょう。
覚醒時の感覚
私は「あの感覚」と似たものを、今でもたまに感じることがあります。
それは、朝方のまどろみの中です。
まさに覚醒に向かわんとしていることに気づいた瞬間、自分が「拡張された認識」ともいうべき状態にあり、その認識が急速に狭まっていくのを感じます。
そして直感的に、残念さと不満を覚えます。
「この状態じゃなくなるのか。またあそこに戻るのか。」
「まだ続いているからしょうがない、でもめんどくさいな。」
それは制約のない、より高次の知性のような感覚ですが、覚醒後に現れることはありません。
だから、もしかすると、それは魂の本音なのかもしれません。
いつか私が人生を終え、この肉体から離れる時、「もう、あそこには戻らなくてもいいのだな」と思うのかもしれません。
その時きっとあの感覚を取り戻し、「本当の」自由を覚えていることでしょう。
それは極めて興味深く、私にとっては「いつの日か来る『お楽しみ』」でもあるのです。





