スピリチュアリストから”相手にされない”人ってどんな人?(前)

怪しいお話
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善い人、悪い人

善い人ってどんな人?

ある日、友人から、小夜さんの思う”善い人”ってどんな人?と聞かれたのですが、その場で納得いく答えを出すのが難しく、後日つらつら考えていました。

回答が難しい理由だけなら簡単で、

立場の取り方で、答えが大幅に変わるから

なんですけどね。

善悪判断にまつわるスピリチュアリストの困難

そもそも善悪の判断自体、基準の取りようでどうとでも変わるものですが、スピリチュアリストも人の子なので、基本的な感覚は非スピリチュアリストとほぼ同じです。

話がややこしくなるのは、スピリチュアルな能力によって、自分以外の人が”知りえない”情報を知ってしまうためです。

他人の好み集団の”常識”などに基づく判断と、自分が持つ情報によるそれが食い違う時、

相手の意見が理解できると同時に、

自分の情報が(結果に対して)重要と思う、

というジレンマに直面します。

その場合、

トレードオフ(一方を立てれば他が立たない)

に陥りがちですが、それだけなら、例えば”クローズドインフォメーションを扱う業種”など、スピリチュアリストならずとも似たような体験をする人は少なからずいるでしょう。

スピリチュアリストだけが直面する最大の困難は、

その情報を知るのは自分だけだ、

という理不尽さです。

ジレンマの落としどころ

ま、そんな人生が続いた果てに、スピリチュアリストたちはいつか、

”自分が”善いと感じる選択をする

ようになるんじゃないか、って気はしますがね。

答えを”外側”ではなく”内側”に求める的な

”肉体を着ている”以上、人間に理解/コントロールできる範囲などたかが知れており、どのみち”真の大局”に手が届くはずもありません。

また、どれほど情報が増えたところで、最終的にすることは選択決定だけです。

ただ、スピリチュアル人生の結果である”開き直り”と、 怠惰や横着や傲慢などによる”投げやりさ”は全く別物(だ、と個人的には思いたい)ですけどね。

スピリチュアリストが敬遠する(であろう)人

中身が”虚(きょ)”

ともあれ、スピリチュアリストも人の子なので好き嫌いは人それぞれだろうし、そもそもネガティブな性格など(スピリチュアリストに限らず)誰だって嫌でしょう。

でも、個人的に「大方のスピリチュアリストが敬遠するだろう」と思われる人種がいて、

それは、

「実(じつ)のない人」

もっとわかりやすく言うと、

その人の言動(表面)は素晴らしいが、エネルギー(内面・本心)は全く逆な人

です。

存在そのものが虚

敬遠する理由は簡単で、

個人、またはスピリチュアリストのどちらの立場からみても「付き合う意義が見いだせない」相手だから

です。

自分を良く見せたい、とか、嘘をついても得をしたい、というような狡猾さは、誰しも少なからず持っているし、それだけで悪人と決めつけるようなものでもありません。

しかし、「内面が虚である」ということは、孔子が言うところの「視れども見えず、聴けども聞えず、食えどもその味を知らず」というやつで、そういう人は”目に見えない場所にある、おおもとのエネルギー”とつながっていない。

一見、楽しく感じたり、金銭や人脈面などでメリットをもたらしてくれる相手でも、その人の本質が「虚」なら、付帯物もたいてい「虚」です。

”最終的に”どうかは、神のみぞ知るです。

実と虚のジレンマ

先ほど書いた”ジレンマ”のような、「実(じつ)」に見える状況が実際は「虚(きょ)」であるという情報を持っている場合、最も確実かつ安易な選択肢は多分「思考停止」でしょう。

己の知る「真実」に対する責任を放棄しさえすれば、我が身は安全で、(一つの)苦しみからは解放される、というわけです。

しかし、たいていのスピリチュアリストは、スピリチュアルな能力と同時に、強い正義感や倫理観を併せ持っている。

できる限り、実(じつ)でありたい」と思っているけれど、現実は、常にそうできるはずもありません。どれほど傷ついたとしても、情報を知っているのは自分だけなので、ひたすらに孤独です。

実のない人間の、実がない理由はたいてい「利己的な動機」によるものです。

そして、時には自分に実がないことに気づいておらず、ともすれば自らを「実(じつ)の権化」と勘違いしていたりすらする。

我々からみれば、一言で「あつかましい」わけで、

それを明確に知覚する能力があるのなら、お付き合いはご遠慮したい、と思うのが人情だろう、と思ったりもするわけです。

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