はじめに
神社を訪れる人は、毎年何百万人にも上ります。
けれど、その中で「願いが叶った」と実感する人は、どれほどいるでしょう。
実際のところ、それはほんの一握りかもしれません。
一方で、たった一度の参拝で願いが叶う人もいます。
その差はどこから生まれるのでしょうか。
今回は、私自身の体験も交えながら、「願かけが叶う秘訣」について考察します。
本記事は、日本の神道的な神観を前提としています。特定の宗教や信仰体系を否定・断定するものではありません。
願かけが叶わない理由
願かけが叶わない時、
「無理な望みだったから」「やっぱり神様なんていないから」
と思う人がいるかもしれません。
しかし、私は別の理由を考えています。
それは、“神の加護が届きやすい状態”ではなかったということです。
神の性質を知る
神が加護を与えるかどうかは、私たちの側に大いに関係があります。
まず、神は高次の存在です。
その思考や感覚には、人間とは異なる部分があります。
日本の神は普段、人間を個別認識しておらず、祈りや感謝が向けられたとき、より“個”へと焦点が合います。
また、神にはそれぞれ役割や性質があります。
彼らが人の願いを叶えるのは、波長、状況、タイミングが整ったときと考えられます。1
だからこそ、
- 願いに合った神社に参拝すること
- 敬意と感謝をもって祈ること
- 明確な意思と目的を持って祈ること(漫然と願いを唱えるのではなく)
といった「準備」が必要となるのです。
願かけが叶う3つの秘訣
願かけを叶えやすくするプロセスには、以下の3つが考えられます。
1. 感謝を捧げる:通路を開く
願かけをする前に、まずは神へ敬意と感謝を捧げること。
それは、神と波長を合わせるために欠かせない段取りです。
特別な儀式や経済的な負担を伴うものではないので、ぜひ実行されることをおすすめします。

2. 心を整える:受け取れる器をつくる
次に、神の加護が届く状態にしておく必要があります。
具体的には、以下のいずれか、あるいは複数の条件を満たすべきです:
- 本心から望む内容を願う
- 心身ともに、神の加護を受け入れる準備を完了しておく
- 願いや自分自身を、神から関心を持たれる存在にしておく
どれも、自ら準備すべきそのためには、ブレインダンプや瞑想、アファメーションのような、自己の内面を整える手法が有用です。項目といえるでしょう。
3. 縁の深い神を選ぶ:どこと繋ぐかを定める
もし参拝の目的が願かけで、普段から特定の神と馴染みがないのなら、有名な神社を巡るよりも、自分と縁の深い神や守護の存在に心を向ける方が効果的かもしれません。
たとえば、産土神(うぶすながみ)【産土神】:生まれた土地を守護し、その人を生涯にわたって見守る神。やご先祖様は、すでにあなたを「個人」として識別してくれています。
あなたの願いに、より耳を傾けてくれやすいでしょう。
体験談:感謝の力
実際のところ、感謝のような”純粋なエネルギー”は神に届きやすいと思います。
それを裏付けるような私自身の体験をご紹介します。
十年以上前、青森を旅行したときのことです。
旅の終盤、ある神社の看板が目に入り、車を引き返して立ち寄りました。

そこには、津軽藩主と吉川神道の神々が祀られていました。
廟所の前に立った時、かつてこの地は苛烈な凶作に苦しめられたことがよぎり、「今こうして旅を楽しめるのは先人の努力のおかげだ」と思いました。
そして、この土地への感謝とさらなる繁栄を祈りました。
参拝を終え、車に戻ると、快晴だった空から霧雨が降り始めました。
微粒子のように細かいそれに、遅い午後の光が差し込み、みるみるうちにあたり一面が金色に輝きはじめました。

私たちは驚き、車を停めて外に出ました。
光に満たされた世界には誰もおらず、服もほとんど濡れません。
まるで異世界のようでした。
私たちは言葉もなく、荘厳な情景をただ眺めるばかりでした。
やがて車を走らせると、金色はある地点から急激に薄れ、まもなく完全に途切れました。
振り返るとまだ遠くには光が残っており、「あの神さまの管轄は、あの辺りまでなのかもしれない」と感じました。
旅の最後には、偶然駅前でねぶた祭に出会い、「東北の神様のおもてなしは手厚いな」と内心にんまりしました。
おわりに
今回の記事を一言でまとめれば、神道的な視点から、「『神意』という”不確定要素”を、より確実化する方法」と言えるでしょう。
その過程で自ら動き、整え、感謝するうちに、もしかすると神の助力は必要なくなるかもしれません。
それでも、もし神が力を貸してくれたなら、結果は思いもよらない形で訪れるかもしれません。
彼らは、常に人の予測や理解を超えた存在だからです。
この記事が、願望と真剣に向き合う一つのきっかけになれば幸いです。
脚注
- ただし仏教では、高次の存在である如来(すでに悟った仏)や菩薩(悟るために修行中の存在)は、過去に立てた「衆生(人々)を救う」という本願に基づいて活動しているとされる。つまり、「人を救うこと」がその存在の本質であるといえる。 ↩︎



