豊臣秀吉と千利休 ― 欠乏が紡ぐ魂の物語(中):心の庭が映す影と光

エッセイ

秀吉の欠損と千利休:精神的な庭の破壊

前回は、秀吉の「人間にはどうにもならない欠損」のうち、出自や不妊といった物質面に関わるものを取り上げました。

今回は、形而上面での欠損――すなわち、「精神的な高み」への渇望――に焦点を当てます。

千利休は、秀吉の精神面に関わることができた、ほぼ唯一の存在でした。

「わび茶」を大成し、堺商人の出でありながら秀吉の絶大な信任を得て政治・外交にも関与。

しかし関係は次第に軋み、大徳寺山門の木像安置などをきっかけに切腹へと追い込まれます。

現実という「写し絵」

現実は、関わる者たちの内面を映し出すスクリーン――”エネルギーは現実化する”から――でもあります。

利休の切腹という、この「最悪の現実」にも、ある「写し絵」が見て取れるかもしれません。

まずは事件の構造と、秀吉と利休の関係性からみていきましょう。

秀吉と利休:相互利用の構造

秀吉にとっての利休

秀吉にとって、利休には絶対的な”利用価値”がありました。

彼はフィクサーとして茶室で機密交渉を行い、商人として経済的な実益と情報をもたらしました。

さらに「わび茶」によって、成り上がりである秀吉に”教養ある天下人”という虚飾を与えました。

しかし、利休が象徴する「形而上の思考」は、秀吉の得意領域ではありません。

それにもかかわらず、天下取りを果たした成功体験が、「自分が一番」でなければ気が済まないという「エゴ」に強力な口実を与え、精神的な上下関係を許せなくしていました。

利休にとっての秀吉

一方、利休にとっても秀吉には高い利用価値がありました。

信長を失った彼は、明智光秀討伐のため尼崎に滞在していた秀吉を訪問。

結果として天下人という絶対的なパトロンを獲得し、「わび茶」を社会の頂点に押し上げました。

また、一介の商人でありながら大名たちをも動かす絶大な影響力と権威を手に入れ、茶道具の利権を通じて大きな利益を得ました。

秀吉の並外れた現実感覚と実行力は、美の追求者たる利休には持ち得ないものです。

それを目の当たりにすることは、「美の極地」の探求に強く貢献したはずです。

木像事件に潜む秀吉の計算

秀長という制御装置の消失

利休切腹事件(1591年2月)には、いくつもの不自然な点がみられます。1

中でも決定的なのが、「不敬罪の根拠」とされた木像の件です。

これは利休による寄進への謝礼として大徳寺側が設置したもので、しかも設置から不敬罪に至るまで一年以上の間があります。

秀吉が全く事情を知らなかったと考えるのは不自然秀吉は人間心理の機微に異常に敏感で、しかも諜報を制度化しています(検地・奉行制)。いわば「情報統制のエキスパート」です。
少なくとも設置の事実関係くらいは確認したと考えるのが自然でしょう。
です。

この事件のトリガーは、豊臣秀長の死(1591年1月)と考えられます。

彼は豊臣政権最大の調整役であり、利休の庇護者でもありました。

彼の死は、石田三成らによる官僚派と加藤清正らによる武断派の間の軋轢を激化させ、官僚派に利休の排斥を秀吉に進言させました。

秀吉は、この政治的な流れと、利休の才能への劣等感を同時に解決できる「濡れ手で粟利休は武士ではないがそれと同等の権利を与えられていた点で、「切腹」の名目はたちます。清須会議然り、秀吉はこのような”グレー”な状況において、表向きは形式を整えつつ、実質は自分の利益に寄せる政治手法に長けていました。
なお、秀吉の不興を買った利休の弟子・山上宗二は、耳鼻を削がれたうえ断首されています。
」の方法を思いついたのです。

完全無欠の策と、たった一つの誤算

秀吉は、木像事件を口実に、それを官僚派への手土産としつつ、秀長を失った「庭」に利休を新たに補充しようと画策しました。

利休が生き延びる方法は「秀吉への命乞い」だけです。

それによって秀吉は、自身の優位を決定づけたうえで利休を庭に入れることができます。

大政所や北政所が利休助命の口添えを申し出たといわれていますが、それも秀吉は想定内だったはずです。

神がかり的な計算力を持つ秀吉のたった一つの誤算は、利休が切腹を選んでしまったことです。

命よりも、美意識の純粋性を守ることを選んだ利休の究極の割り切りは、骨の髄まで現実主義者である秀吉には想像すらできなかったでしょう。

利休の見立て:精神性が下す評価

利休はその打算を見抜いていたに違いありません。

彼は商人でありフィクサー、つまり政治と人の心の機微を読む達人です。

秀長は秀吉にとって、生涯をかけて粉骨砕身で支えてくれた実弟。

その死すらも自らの目的の「手段」として利用しようとする――その発想は、利休の精神性の高さから見れば、この上ない「下品さ」に感じられたでしょう。

利休のその思惑こそ、「スクリーンに映し出された『写し絵』」です。

同時に彼は、こうも考えたはずです。

たとえ今回をやりすごしたとしても、必ず二の矢三の矢が飛んでくる。

秀吉には美意識の純粋性は決して理解できない。

今、自らが生き残る唯一の方法は、自らの茶の湯を破壊することだ。

彼は深い徒労感を覚えたに違いありません。

切腹は彼の合理的な割り切りの結果ですが、その絶対的基準は「美の追求者」という立場そのものだったのです。

秀吉の八つ当たり

利休の死は秀吉にとって、「庭」の住人候補として認めた相手からの絶対的な拒絶でした。

それは、彼にはどうすることもできない「敗北」であり、彼の心の「最も柔らかい部分」をこの上なく傷つけたでしょう。

秀吉の徹底的な制裁の常套手段は「耳鼻を削いだうえでの断首」です。

しかしそれは生前の辱めであり、死後まで苛烈な辱めを加えられたのは秀次と利休――”庭の崩壊”に直結する二人だけなのです。

脚注

  1. この事件についての主要一次史料は『多聞院日記』『言経卿記』『宗湛日記』などに限られる。いずれも「利休が切腹した」という事実を淡々と記すのみ、『宗湛日記』には「秀吉が切腹理由を公にしなかった」とあり、利休の死が情報統制の対象になっていたことが伺える。 ↩︎

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