豊臣秀吉と千利休 ― 欠乏が紡ぐ魂の物語(後):それぞれの「足るを知る」

エッセイ

二人の「欠乏」をめぐる学び

※ 本記事は三部作です。前回の記事はこちら。

利休が得たもの:手放しによる「美」の完成

利休の辞世の句は諸説ありますが、有名なものに

人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺
堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛

― 千利休 辞世の句

が挙げられます。1

難解な禅語が多用されており、美の探求者の辞世としては異質です。

解釈にも諸説ありますが、私はこれをある目的のために用意された「構造体」と考えています。

辞世の句とは、本来、死の意味を自ら定め、それを“完成形”として後世に残すものです。

利休ほどの達人であれば、いくらでも見事な句を詠むことはできたでしょう。

しかしそこには、自身の意に沿わない解釈をされてしまう危険が内在します。

自身の死の真相が、権力によって歪められるおそれもあります。

この句は彼の想いを宿しつつ、難解さがもたらす「解釈の余地」によって勝手な意味付けを排し、「わび・さび」の完成形を守る装置として機能しています。

この短い文字列には、利休がその生涯で到達したすべてが凝縮されていると言えるでしょう。

利休は自身の死が秀吉に打撃を与えることを理解していたはずです。

それが復讐であったかはわかりませんが、その切腹によって「利休がすべてを得た」構図が完成しました。

秀吉が得たもの:喪失による「気づき」

一方、秀吉が得たものは明確です。

それは、利休を通じて触れた形而上的世界――宇宙の広がりを感じ、味わう機会を失ったことへの「気づき」です。

秀吉の年齢と、利休がわび茶の祖だったことを考えれば、その損失は致命的でした。

後年、彼は伏見城の築造に際して「千利休好みになるように」と指示を出し「伏見の普請の事、利休にこのませ候て、ねんごろに申しつけたく候」(文禄元年12月11日付前田玄以宛秀吉書状)
茶室に関しては『聚楽行幸記』『松屋会記』でも同様の模倣(草庵風、狭小空間、にじり口)が確認できます。
、茶室を「利休好み」と呼ばれる様式で造らせています。

もしかすると、利休風の空間に身を置くことで、かつて感じた世界の気配を取り戻そうとしていたのかもしれません。

しかしそこにあるのは、利休本人の意図ではなく、もはや後追いの模倣でしかありませんでした。

二人をつなぐ「接着面」——互いの未熟を映す鏡

縁のある人間には必ず「接着面」となる共通因子が存在します。

彼らの場合、それは「欠乏を埋めようとする衝動」でしょう。

秀吉は欠乏を“外”の世界で埋めようとし、利休は“内”の世界で解消しようとした。

彼らは互いの「未熟」を映し出す鏡だったのです。

また、彼らはともに「防衛者」でもありました。

秀吉が守ろうとしていたのは「自らのエゴ」であり、利休が守ろうとしていたものは「魂の自由と美の純粋性」でした。

秀吉の最期:虚飾の果てに見たもの

秀吉は、1598年9月18日、京都伏見城で死去します。

死後、豊臣家に残されたのは客観性と政治的センスにおいて壊滅的な淀殿と、わずか五歳の秀頼。

天下を獲る過程で最も非情な現実を知り尽くした男が、その結末を予見できなかったはずがありません。

晩年、彼は五大老【五大老】:徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝。
家康はすでに排除できないほど強大だったため、最重要ポジションである「筆頭後見人」に任命。秀吉の幼馴染だった利家をその同格に置き、「監視役」としました。
秀吉の死後、家康がおとなしくしていたのは利家が健在だった期間に限られます。
と五奉行による合議制を設け、「太閤の意思」という残像を使って、時間稼ぎと牽制のシステムを構築しました。

しかしそれは前田利家の死(1599年4月)により、あっけなく崩壊します。

秀吉自筆の遺言状案2の末尾には、秀頼のことを託す切実な一文が残されています。

「返す返す秀より事、たのミ申候。五人のしゆ(衆)たのミ申候。いさい五人の物(者)に申わたし候。なごりおしく候、以上」3

これは、裸で放り出された獲物をどうか襲わないでくれと、紙よりも薄い猛獣の良心にすがろうとする老人の絶望的な願いです。

「猜疑心」が強く、「虚飾」を求めた秀吉が作り出したのは、そのままの現実でした。

彼は死の床で、思いも寄らない何か良いものがもたらされるという一縷の望みにすがっていたでしょう。

そんなものあるわけないのに。

そして、彼が最後にどうにか守ろうとした愛する我が子は、「虚飾」かもしれません。

私は正直、秀吉の人生をたどることは、すなわち「稀代のエゴ」の証拠集めだろうと思っていました。

実際そのとおりではありました。

それでも、命の限り生き抜いた末にこの身も世もない書面を書かねばならなかった老人の心中を量ると、胸が潰れそうになります。


秀吉の魂が生まれる前に定めた目標のひとつは、明らかに「足るを知る」です。

彼は自身の欠損にこだわり、死ぬまでそれを物質で補おうとし続けました。

けれど、持久戦の末に北条氏を降伏させた瞬間や、貴族の最高位である関白に就任し、天皇から豊臣姓を賜った瞬間、

それから、大阪城の天守閣から眼下に広がる稀代の百万都市を見渡した瞬間、

確かに彼は高揚し、「愉快だ」と思ったことでしょう。

その気分こそ、まさしく「足る」なのです。

魂の目標と「足るを知る」

人はそれぞれ異なる器に、異なる魂の目標を入れています。


もし秀吉に生まれたとして、その目標を達成できる人がどれくらいいるでしょう。

たとえ彼について多少の分析をしたところで、それは「事後諸葛亮【事後諸葛亮】:物事が終わった後で、さも自分には全てわかっていたかのように得意げに意見を述べること。」にすぎません。

彼の人生から私たちが学べることがもしあるとすれば、それは、日々訪れるちょっとした”いいこと”に心を預けることかもしれません。

どんな人生のどんな瞬間にも――とてもそんな気分にはなれない時でさえ――必ず「いいこと」は隠れています。

それは綺麗ごとではなく、ただの物理法則なのです。

それらはいつもそこにあり、あなたに見つけてもらえる瞬間を静かに待っています。

脚注

  1. 利休の死における覚悟と美意識の完成を示す句と言われる。宗湛筆記『南方録』(伝承による)より引用。 ↩︎
  2. 「豊臣秀吉自筆遺言状案」より引用。秀吉の遺言の一次資料とされるのは、他に「太閤様御覚書(浅野家文書)」「豊臣秀吉遺言覚書書案」など。これらを通して見ると、秀吉の死の直前の関心が「朝鮮からの速やかな撤兵」と「五大老による結束と秀頼の補佐」に集約されていたことがわかる。太閤はん、朝鮮出兵は失敗やったと気づいてたんやん。 ↩︎
  3. 現代語訳は「繰り返し繰り返し、秀頼のことは、五人の衆(五大老)にお願い申し上げます。詳しいことは五人の者(五大老)に申し渡してあります。名残惜しく思います。以上」  ↩︎

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