スピリチュアル好きのリア友には言えない本音

スピリチュアル・トーク
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言えない本音

スピリチュアルの分野では、占いや霊視、書籍やパワーストーンなど、多岐に渡るサービスや商品が、豊富に展開されています。

私はほぼ自前で賄うので、主に書籍やブログのみ利用しますが、私の周りのスピリチュアル好きさんたちは、手広く試しています。

ここだけの話ですが、私は、彼らの体験談に、頻繁に違和感を覚えています。

それは、彼らが「スピリチュアルによって、(気分や状況、自分自身の内面などが)以前よりも良くなった」ということです。

彼らのほとんどは、スピリチュアル使用前後で、エネルギーがあまり変わっていません。

本望が叶った人も、あまりいません。

世の中には、スピリチュアルの効果が実際にあった人もたくさんいるでしょうが、私の友人たちの場合、彼らの感想は「勘違い」や、「スピリチュアル使用者(以下「使用者」)とスピリチュアル供給者(以下「供給者」)の共同幻想」のように感じられます。

今回は、私が、普段は心の中だけで思っていることを、書いてみようと思います。

使用者側のこと

今、直面している問題を解決する方法は、それを生み出した「本当の原因」を自分の中に見つけて、認めることです。

それは、どんな人にとっても難しいけれど、スピリチュアルが提案する「高次元の視点」を踏まえると、取り組む際の難易度が下がります。

とはいえ、難易度が半減したり、ゼロになるわけじゃない。

自らスピリチュアルを求めた使用者でも、取り組みには抵抗を覚えるでしょう。

かくして、彼らの多くは、別の方向に力を注ぎ始めます。

たとえば、助言を都合よく解釈したり、無視したり、いろんな言い訳を作り出したり、他者や環境などを非難したり、攻撃したり。

または、スピリチュアルが扱う対象が「目に見えないもの」であることを理由に、スピリチュアルの信憑性を疑ったり。

(それなら、最初から、別の手段を選べばいいのに)

そもそも、スピリチュアルを求めた理由が、「取り組みを保留したまま、予想外の良い解決方法が出現して欲しいから」である人もいます。

(理由の前半部分に意識を向けなければ、可能なのに)

彼らの本望はなかなか叶いにくいでしょうが、それは、スピリチュアルがまやかしだからではなく、彼らがスピリチュアルについて誤解しているからです。

供給者側のこと

もし、供給者が実力不足や偽物などだったとしても、スピリチュアルの真実によって”護られ”ています。

スピリチュアルでは、「この世に間違いはない」し、また、「この世のすべての体験は、学びの材料」なので、たとえ使用者が供給者から実害を被っても、「ただ、そうあった出来事」にすぎず、「使用者は、そこから何を学びますか」ということになります。

また、供給者は、スピリチュアルの知識―”みえない”人には判らないこと―を、自身にとって都合よく使えます。

いつまでも使用者の願望が実現しなければ、「ものごとは、しかるべき時にやってくる」「ここが踏ん張りどころ」、いつまでも使用者にとって不満な現象が消えなければ、「見えない部分は変化している」「これまでマイナス方向だった流れが、プラスになった(差し引きゼロ)」、使用者に役立つ助言ができなければ、「縁には、意味がある」「我々は引き合わされた」などと言えばいい。

上の「 」内の言葉が事実である場合も、もちろんあるでしょう。

でも、そうでなければ、「なんでもあり」です。

スピリチュアルは「道具」

スピリチュアルは、ただの「道具」です。

使って効果があるかどうかは、使う人によります。

少し話が脱線しますが、スピリチュアルは、正義や倫理とは別軸のものです。

たとえば、前述のようなエセ供給者が受ける”天罰”の内容は、本人と神との間の契約によります。

そこに被害者の意思や感情は(基本的には)介在し得ません。

天罰受けるちゃー、まあ受けるでしょうが、それを被害者が確認できるとは限りません

良くも悪くも「この世は、なんでもあり」なので、ささやかな癒しから、奇跡のように感じられる大望まで、望めば何でも(三次元で現象化できるものなら)叶うでしょう。

使用者に必要なのは、それが本望である確信と、結果を得る決断と、必要なことを行う覚悟です。

私はスピリチュアルを公言も仕事にもしませんが、使用者を傍から見ていると、手段はいくらでもあるのに、わざわざスピリチュアルを選ぶなら、そのポテンシャルとメリットを活かせる方法で使えばいいのに……と時々思うのです。

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