どんな試練も乗り越えられる?
「神は、乗り越えられる試練しか与えない」という言葉があります。
「どんな試練も乗り越えられる」というニュアンスで、助言や、ドラマのセリフなどに使われていますが、私は、これ、あまり良い表現じゃないと思います。
乗り越えられない試練が実際にあるかどうかは知りませんが、ある人の心が、「このままでは試練を乗り越えられないのでは」と思う状態の時があるし、彼らがそんな風になった原因を「自業自得」と言いたくない時もあるからです。
試練を乗り越えにくい状態
私の親戚の話
私にとって、たとえば、私の親戚がそうでした。
私は子供の頃、広島の病院に入院していた親戚を見舞いました。
彼女は、爆心地から2.5~3kmで被爆し、彼女の夫は、原爆で受けた傷がもとで亡くなりました。
彼女は老後、施設に入りましたが、そのことについて私の母は、「(彼女と子供たちは)なさぬ仲だから」と言いました。
原爆症が悪化して動けなくなり、入院して無償で治療を受けましたが、そのことについて私の祖母は、「実験台じゃ」と言いました。
彼女は年老いていて、重い病気を背負い、また独りぼっちでした。
スピリチュアルの法則では、「心で考えたことが現実化する」ので、彼女の境遇は、彼女の心の持ちようの結果ということになるでしょう。
でも、私が人としての立場から考えれば、彼女はただ、過酷な現実を、懸命に生き延びようとしただけだと思います。
試練を乗り越えにくい状態になる仕組み
心の疲労を、ケアしない(できない)まま、どんどん溜め続けると、心の反応が鈍くなったり、場合によっては麻痺したりします。
それは、防衛本能によるものなので、心や身体が壊れてしまうことは回避できます。
でも、同時に、試練を乗り越えるきっかけとなる「気づき」も得られにくくなります。
悪循環を繰り返し、最終的に心が凝り固まりすぎる(固定観念が強固になりすぎる)と、いつまでも試練から抜け出せなくなってしまいます。
固まりすぎた心をほぐす方法
彼らは、まず、凝り固まった心をほぐさなくてはいけません。
でも、あまりに固まりすぎていると、通常のスピリチュアルのメソッド(アファメーションや自愛など)は役に立ちません。
(綺麗事などと受け取られやすい)
そんな時、私は、本人の肉体か、神仏にアプローチすることをお勧めしています。
肉体へのアプローチ
もし、私たちが本質(魂)の状態でいたら、心の苦しみは感じません。
でも、肉体を着て現世に存在すると、心の苦しみを感じます。
肉体は、いわば「枷」のようなものです。
でも、肉体を、「情報を集めたり、処理するもの」としてみれば、それは優秀な「デバイス」と言えます。
それを踏まえて、凝り固まった心をほぐす、最も地道で確実な方法は、「肉体(皮膚や筋肉など)に、快の刺激を与え続けること」だと思います。
たとえば、自分の身体をやさしく撫でたり、さすったりする。
または、乾布摩擦などもよいでしょう。
筋肉をほぐすため、ストレッチやマッサージをする。
チャクラやリンパなど、滞りやすいポイントを流してみる。
(デリケートな場所なので、本などでやり方を確認してください)
家族や施術師さん等の他人からしてもらったり、好きな香りのマッサージオイルを使ったり、行う時に、身体に「お疲れ様」や「いつもありがとう」、「愛してます」のような言葉をかけるなどすると、効果が上がりやすくなります。
最初は何も感じないかもしれませんが、しばらく続けてみると、変化に気づくでしょう。
神仏へのアプローチ
”話す”は、”放つ”に通じるそうですが、他者からの偏見や差別、無理解などを恐れて、自分の気持ちや経験を話すことができない(=苦しみを放てない)人たちがいます。
そんな時、神仏にすがり、その導きに身をゆだねるのも一つの方法だと思います。
神仏は、私たちより高次の存在なので、3次元の存在には分からないことも、神には分かるからです。
神仏に問いを発すれば、ヒントや答えが、直感や出来事などの形でもたらされます。
でも、最終的な目標は、神仏から救ってもらう事ではなく、自分で自分を愛せるようになることだと思います。
最後に、冒頭の言葉は聖書に由来すると言われていますが、日本語訳以前の原典は、このような表現ではない(翻訳によって、ニュアンスを歪められた)と言う説があります。
助言などでもらった時、もし抵抗を覚えたなら、受け入れなくてよいのでは、と個人的には思います。