神と感謝と心願成就

エッセイ

参拝と感謝

神に願い事をしてはいけない?

「神社参拝では、神に感謝を伝えるだけにして、願い事をしない方がよい」と言われているのを、時々見かけます。

それはおそらく、神への敬意という観点からの意見でしょう。観点には賛成ですが、願い事に関しては、私はどちらでもよい気がします。

なぜなら、多くの神は人間をいまひとつ”個体識別”していない印象があるからです。

感謝の意味

もし、誰かの願い事がたった一度の参拝で叶ったとしたら、それは、願い事がすでに叶う段階にあったか、本人が神気を受け取れる状態にあったか、または、本人や願い事の内容などに神が興味を持つ要素があったからだと、私は思います。

だから神の力を借りたければ、自分を識別してもらうところから始めた方が良いでしょう。

最善の手段は、神に感謝を伝えることだと思います。感謝は金銭的コストがかからないし、実際に神に届きやすいエネルギーだからです。

今回は、私が神への感謝の効果を実感した出来事について書いてみます。

金色に輝く光景

十年以上前、私は青森駅でレンタカーを借り、青荷温泉やキリストの墓、十和田湖などを数日かけて訪れました。

▲ 青荷温泉ランプの宿 引用元:ゆ・YOU・湯

最終日の午後、走行中の車内から見かけた神社の看板がなんとなく気になり、いったん通過した後、引き返して参拝しました。

そこには天津神々と、歴代の津軽藩主が祀られていました。

藩主の廟所の前で、ふと、津軽は約5年ごとに凶作に見舞われていたという小説の一節1や、死期の近い家族がいる家同士が、食用にするために死体の一部を交換する約束をしていたという東北凶作における事例などを思い出し、今回私が旅行を楽しめたのは、名君と呼ばれた彼らが苦心して築いた礎のおかげなのだなと思いました。

そして、感謝と敬意を捧げ、津軽が今後も繁栄しますようにと祈りました。

引用元:HIROSAKI Heritage

参拝を終え、再び車を走らせ始めて間なしに、淡い霧雨が降り始めました。

その日は朝からピーカン晴れだったので、狐の嫁入りだねと同行者と話し合っていたところ、霧雨が陽の光を受けてみるみる金色に輝き始めました。

ついには、見渡す限り一面が金色に染まり、それはますます濃くなってゆきました。

私たちは驚いて車を止め、外に出ました。

髪や服にかかる雨粒は水蒸気のように柔らかく、身体はほとんど濡れませんでした。

金色に輝く荘厳な空間の中に私たち以外の誰もいない、という非現実的な光景をしばし呆然と眺めた後、レンタカー返却の時間に間に合わせるため、車に戻りました。

車窓にはしばらくの間、金色の風景が続いていましたが、ある地点から急激に金色が薄れ始めました。

振り向くと遠くには金色が残っていたので、「あの神様の管轄は、あそこまでなのかな」と思いました。

レンタカーを返した後、予期せず駅前でねぶた祭りに遭遇し、東北の神様のもてなしは手厚いな、と思いました。

願掛けについて

仏は「衆生を救う存在」と表現されることがありますが、神は「衆生を救うこともある存在」だと私は思います。

だから、神の力を借りたければ、相応の手続き工夫が必要だと思います(基本的には)。

また、天津神や国津神よりも、先祖産土神の方が力を借してくれやすいだろうと思います。なぜなら、彼らはもともと自分を個体識別してくれているからです。

もし神助を得るために参拝するのなら、馴染みのない神社に遠征したり、ご朱印集めをするよりも、日頃から神棚や仏壇に手を合わせたり、お墓参りや産土神参拝に行く方が手堅いと思います。

神は我々よりも高次元にある存在です。感覚や考え方が我々と異なるし、また、神にも色々いるので、参拝相手の確認や参拝時のマナーなどはお忘れなきよう。

脚注

  1. 太宰治「津軽」 ↩︎

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