夏越の祓とは
日々の暮らしの中で、知らず知らずのうちに身についた穢れを祓い、無病息災を願う、大祓(おおはらえ)の儀式。
神社本庁によれば、その起源は、イザナギノミコトの「禊祓」です。
イザナギノミコトは、亡くなった妻のイザナミノミコトを連れ戻すために黄泉の国に向かいましたが、妻との約束を破って、その変わり果てた恐ろしい姿を見てしまい、慄いて現世に逃げ帰ります。
その際、黄泉の穢れを祓うために、筑紫の日向の橘の小戸で行った儀式が、禊祓です。
大祓は年に二回行われ、夏は「夏越の祓(なごしのはらえ)」と呼ばれ、1~6月の穢れを祓い、冬は「年越の祓(としこしのはらえ)」と呼ばれ、7~12月の穢れを祓います。
夏越の祓では、茅の輪(ちのわ)くぐりと人形(ひとがた)の奉納が行われ、6月30日前後に、多くの神社で神事が執り行われます。
また、この時期に合わせて食べるお菓子(水無月)もあります。
茅の輪くぐり
茅の輪くぐりの方法
茅の輪くぐりは、茅(ちがや)と呼ばれるイネ科の植物で編んだ、直径数メートルの輪をくぐる神事です。


上の図のように、唱え詞を唱えながら、左回り、右回り、左回りの順に3回くぐります。
踏み出す足は、左回りの時は左足、右回りの時は右足です。
回る前に一礼し、一周回るごとに、正面の拝殿に向かって一礼します。
唱え詞の内容は、神社によって異なります。
余談ですが、ほとんどの場合、文章が長いため、横着な私は、近年はもっぱら八坂神社で茅の輪くぐりしています。
三周とも「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」だけなんですよ(´艸`)
蘇民将来について
前述の「蘇民将来」は、茅の輪くぐりの由来とされる物語の、登場人物の名前です。
物語にはさまざまなバリエーションがありますが、共通するのは、
「スサノオノミコトが旅先で一夜の宿を乞うた時、金持ちの長者は断り、蘇民将来はもてなした。
スサノオノミコトは、長者に恨みを感じ、その一族を災厄によって滅ぼしたが、蘇民の娘には目印をつけさせ、また、蘇民の一族は災厄を免れた」
という部分です。
長者が、蘇民将来の弟になっているバージョンもあります。
スサノオノミコトと蘇民将来にまつわる物語は、「釈日本紀(13世紀末頃)」内の「備後国風土記逸文」や、「牛頭天皇之祭文(リンク先は、現存するもののうち最古の『信濃国分寺の祭文(1480年)』)」、「祇園牛頭天皇御縁起(1634年)」などにみられます。
備後の国~と牛頭~は原文と現代語訳が、祇園~は原文が、リンク先にあります。
これらを読むと、通説の中の少し不自然な部分である、「蘇民の一族は(無条件で)助けてもらえるのに、なぜ、蘇民の娘には目印が必要なのか」の理由が、「スサノオノミコトは長者の一族を亡ぼすことを決めたが、蘇民の娘は長者の家に嫁いでいたから」だと分かります。
また、蘇民の娘がつけた目印は、備後の風土記逸文では「腰に茅の輪」、信濃国分寺の祭文では「”蘇民将来之子孫也”と書いた柳の木で作った札」、祇園牛頭天皇御縁起では「茅の輪に、”蘇民将来孫也”と書いた札を赤絹糸でぶらさげたもの」とそれぞれ異なりますが、いずれにせよ、古来より、スサノオノミコトと蘇民将来は、疫病除けや厄除けのアイコンとして信仰を集めているわけです。
人形の奉納

古くから、人体に模した「形代(かたしろ)」に災いをつけて、身代わりとして流す”まじない”が行なわれてきました。
人形を流すのではなく、焼くバージョンは、伝承の過程でどんど焼きとの混同が起きたからだそうです。
縄文時代の土偶、弥生時代の人面土器、古墳時代の人物埴輪などにも、これにあたるものが確認されています。
また、平安時代には、宮廷や貴族の間では陰陽師によって行われました。
夏越の祓で用いる人形(ひとがた)は、人の形に切った紙に、名前や年齢(数え歳)を書き、自分の身体の気になる箇所を人形で撫で、人形に息を吹きかけて、その後、御祈祷料を添えて神社に奉納します。
紙に書く内容や、息を吹きかける回数、手順などの細かい作法が、地域や神社によって異なるので、行う際はご確認くださいね。
水無月
京都では、夏越の祓に合わせて、白い三角形のういろうの上に小豆をのせた、水無月という和菓子が食べられます。
ういろうは氷の見立て、小豆は魔除けですが、これは平安時代、氷は上流階級しか口にできない貴重品だったため、氷に対する庶民の憧れが生み出した形なのだそうです。

これを食べると、京都では、盆地特有のうだるような夏の訪れが、もう間近であると気づくのです。