この世の無情なしくみ

エッセイ

はじめに

不思議な気配

大学生の頃、夏になるとキャンパスで時々、不思議な気配を感じることがありました。

私は霊視ができません。気配の内容から「人間だったのかな」とか、「お盆に大学を訪れる人間なら元教員や卒業生かな」などと想像していました。

または、戦没学生かなと。母校のデータでは、1939年から1945年の間に入学した内地出身の学部学生のうち263人が戦死しているからです。

人間とスピリチュアル

私は彼らに対して、どう思いを寄せてよいのか分かりませんでした。

私は彼らの境遇に憤りを覚え、彼らの想いに共感します。

でもスピリチュアルの観点では、彼らの経験は、彼らが生まれる前に決めた目標を達成するための手がかりです。後述するように、彼らの苦しみは彼らの魂にとって望ましいことであるはずです。

それは彼らに対して残酷だ、と人間の私は思います。でもスピリチュアルの観点では、彼らの魂は、彼ら自身なのです。

スピリチュアルの観点

人間について

スピリチュアルの観点では、人間は高次元の存在であるが、三次元の物質である肉体をまとって、三次元に存在している姿です。

人間に生まれてくる理由は、魂を変化させるため1です。変化をより確実にするために人生で達成する目標を持っており、そのための環境や青写真を設定してきています。

また、目標に没頭するために魂だったことを忘れます

ダメージについて

目標達成の手がかりの一つは不快感ですだから人生では不快な環境や出来事を必ず経験します。

それによって人間の心や身体はダメージを負うかもしれません。でも魂はダメージを負いません

宇宙の摂理の観点では肉体は仮のものなので、肉体がダメージを負うことはさほど問題にされないでしょう。

視点の違い

戦没学生の視点

戦没学生たちは徴兵され戦地に送られるまでは、自分は尊重され、輝かしい未来を望める立場にあると思っていたはずです。戦前の大学進学率は小学校卒業者の2%ほどだったからです。

また彼らが幼少期を過ごした1920年代前半は、大正デモクラシーを経て社会運動が高まった時代です。彼らは現代にも通じるような自由主義的な感覚を持っていました。

遺稿を読む限り、彼らの多くは時局の推移を驚くほど正確かつ客観的に理解し、非常に強いジレンマや葛藤を覚えていました。

彼らの魂の視点

彼らの魂から見れば、彼らの現実は目標達成のための手段です。

彼らは高い教養と知性、若者ならではの感性を持っており、極限的な体験をしました。違う時代や環境に生まれたよりも、深く複雑な心的活動を行えたのかもしれません。

もし目標が達成されていたら、彼らの魂はさぞ満足しただろうと私は思います。

この世の無情なしくみ

宇宙の摂理

この世のあらゆる出来事は、宇宙の摂理に従って起きています。摂理は高次元の物理法則なので、高次元からみればどんな出来事も理に適っているはずです。でも人間はその理屈を決して知ることができません。2

だから、自分の記憶にない目標に向かって苦しみ続けなければなりません。

私の落としどころ

私は毎年お盆に、遠い昔の同窓生たちに安らぎと満足のイメージを届けています。

スピリチュアルでは、人の想いには質量があり、また、三次元よりも上の次元には時空における制約がないとされています。

その祈りは私にとって、スピリチュアルの無情さをスピリチュアルで埋め合わせる数少ない方法の一つであるような気がするのです。

脚注

  1. 三次元で行う理由は、高次元で行うよりも負荷が高いから。わざわざ三次元で行うということは、高次元では魂が望むような変化が生じないのでしょう。 ↩︎
  2. 三次元の球面を二次元で正確に把握できないのと同じ理屈です。 ↩︎

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