私の学生時代、毎年8月頃になると、大学構内で、なんだか良く分からないエネルギー体と遭遇することがありました。
私は霊視ができないので、それらの気配から「これ、以前は人間だったのかな」と思っており、お盆の時期に大学に現れるのなら、元教員や卒業生の霊かな、とか、私の母校では、1939年4月から1945年4月までに入学した内地出身学部学生のうち263人が戦死しているので、そのうちの誰かかな、と想像していました。
それがきっかけて、その後しばらく、戦没学生についての記録をチェックしましたが、彼らが生前に直面した現実について知れば知るほど、つくづく「スピリチュアルの本質は、非情だなあ」と感じました。
その理由は、
①彼らの体験は、人間の立場からみれば「酷い」と感じるけれど、法則の観点では問題ないから。
②彼らの体験は、彼ら自身の目的を達成するための、手段のひとつだったかもしれないから。
③理不尽な出来事に対して、感情的に反応しすぎると、成仏が妨げられるかもしれないから。
です。
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それぞれについて、簡単に説明します。
① この世のあらゆるものは、(高次元のそれを含めた)法則に基づいて存在します。
法則に基づいた出来事しか起こらず、また、法則に基づいていさえすれば、どんな出来事でも起こり得ます。
そして、人間がこの世に生まれてくる理由は、「魂を、より変化させるため」です。
魂が本質で、肉体は仮初めです。
いかなる出来事も、ただ「体験するためにある」だけです。
だから、戦時中の大学生が、軍上層部の思惑に利用されて戦場に送られ戦死しても、法則の観点では、そのこと自体に問題はありません。
もし、亡くなった本人の魂が(生まれる前に予定した通りに)変化したなら、むしろ、よしとされるでしょう。
② 人間は生まれる前に、今世で学ぶテーマを決めて生まれてきます。
戦没学生たちがどんなテーマを持っていたかは不明ですが、彼らの手記を読むと、「生」や「平和だった日常」、「親しい人達」などに、強く思いを巡らせています。
法則の観点では、彼らのテーマは「上記のものたちの素晴らしさを実感すること」だった可能性があり、また、彼らの(辛い)経験は、「素晴らしさをより際立たせるため」だった可能性もあります。
③ もし、彼らの中に、死亡時に、強い恨みや執着などに囚われていたり、自らの死を自覚できなかった人などがいたら、彼らは、お盆に、大学どころか、自宅にさえ戻れないかもしれません。
彼らの霊は、おそらく、死んだ場所や遺体があった場所に留まり続けるからです。
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スピリチュアルの思考は、法則(魂)を基準にします。
出来事の内容がポジティブだとかネガティブだとかは、人間の基準に基づいて、人間が下した判断にすぎません。
また、その人の人生は、本人の魂と神との契約に基づきます。
他人の人生に対して第三者が感じることは、すべて、第三者自身の個人的な感想にすぎません。
でも、人間なら、頭では分っていても、気持ちで納得しきれないことが、誰にでもあるでしょう。
私にとって、戦没学生の境遇は、まさにそれでした。
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あれから長い時間が経ち、私は、彼らより、彼らの親に近い年齢になりました。
人間の存在はちっぽけで、この世は仮初めにすぎない、と痛感させられる出来事にも、ますます遭遇しています。
私には、学生の頃からずっと、終戦の日あたりにしていることがあります。
それは、遠い昔に自分と同じキャンパスに通っていて、戦争で死んだ見知らぬ彼らに、空を見上げて、穏やかな晴天を、心の中で届けることです。
彼らの手記を読む限り、あの時、彼らが求めていたものの一つは、「誰かが、彼らのことをずっと覚えていること」のように感じます。
人間は仮初めの存在なので、人間が生きた証も、また、仮初めにすぎないでしょう。
でも、現代の私が、時間や空間を遠く隔てた彼らに思いを馳せることは、スピリチュアルの非情さを、スピリチュアルで埋め合わせる、数少ない方法のような気がするのです。
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